2010年10月22日金曜日

ニールス・イェルネの聖性と俗性

イェルネを知るよすがとして文章をネットで探したが、以下の文章はなかなかである。
引用元はいくつかあるが代表して「ここ」

以下を読まれるとして、この極めて興味深いエッセーを書いたのはいったい誰なのか想像してみて欲しい。日本人か他国籍人(翻訳)か?読んでいくうちに、作者はただ者ではないことは知れよう。

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 ニールス・イェ ルネという人物は,見る人によっていろいろな側面が浮かび上がってくる。彼が晩年興味を示した抗体のイディオタイプ(その抗体の固有の構造)が,複数のパ ラトープ(見られる構造)として認識されるように。これは私の見たイェルネという人のパラトープである。多少バイアスがあっても,いずれにせよニールス・ イェルネであることに変わりはない。

 生前の彼と親交のあったクラウス・ラエフスキーに最近会ったとき,イェルネについて最も印象的だったことは何だったかと尋ねた。彼は即座に「初めに会っ たときの論文業績が,27編しかなかったこと」と答えた。いまどきの研究者では,若くても数百,少し名前の知れた学者なら,数千はあるに違いない。イェル ネの論文は,クラウスの言うように驚くほど少ない。それもイェルネの一面を示す特徴であろう。

 私は,彼の若いころの論文を読んだことがある数少ない読者の一人である。有名な『Journal of Experimental Medicine』の二つの号にまたがった長大な論文,しかも一編は一冊の雑誌全部のページを占めていた。いくら昔といっても,こんなことは珍しい。

 主題は,ジフテリアの抗毒素の,毒素への親和性に関するものだった。結合力が抗体の濃度に依存するという事実を,確率論的にパラノイックなまでに詳細に 解析し,後にアヴィディティと呼ばれる抗体の性質を記載した最初の論文である。イェルネが有名になっても,この原著論文を本当に読んだ人は少ないのではな いか。そんなに革命的な研究ではないにしても,この完全主義は,イエルネのパラノイックな一面を,すでに色濃く反映している。

 私が初めてこの免疫学の巨人に出会ったのは,1973年か1974年の2月,スイスのバーゼルを訪れた時だった。

 バーゼルは,おりしも名物のファスナハトの最中であった。ファスナハトとは,聖灰水曜日のすぐ後の月曜から3日間,町中で繰り広げられる有名なカーニバルのことで,バーゼルの町は人波で埋め尽くされていた。

 私はこの日に,イェルネの主催するバーゼル免疫研究所に講演に招かれたのだ。私の免疫研究所でのセミナーは,ファスナハトの最終日に予定されていた。だから初めてのバーゼル訪問は,このファスナハトの喧騒の思い出と重なる。

 講義が終わって,所長のイェルネに面会するかと聞かれて,私は躊躇した。何しろ,イェルネといえば,当時免疫学を志すものにとっては,「抗体の自然選択 説」で伝説的な巨人であった。私も「イェルネのプラーク・フォーミング細胞」を主な研究手段にしてきた。こちらは,この二,三年やっと名前が知られるよう になった駆け出しの研究者に過ぎない。私の講演に顔を見せなかった高名なイェルネと,話の接点などなかった。それよりも若手の研究者と実験の議論を戦わせ たり,パレードを見物したほうが気楽だった。

 私は,私を招待してくれたイタリア人の免疫学者ベンベヌート・ペルニス博士におずおずとそう告げた。彼も納得してイェルネとは儀礼的な挨拶をする程度にしようということになった。ところが思いもよらぬことに,イェルネのほうが会いたいと言っているという。

 そのころ私は,抗体産生を抑制する胸腺由来のリンパ球,抑制性T細胞の研究をしていた。その受容体が抗体と同じく抗原特異性を持っているらしいことが, 世界の免疫学者の関心を集めていた。それなら抗体と同じネットワークに入ってもおかしくない。彼もそう思って,東洋から来た無名の研究者に会うと言ったの ではなかろうか。

 講演が終わって,免疫学研究のメッカになっているバーゼルで,はなばなしく研究を展開している若い研究者のところを回って,意見交換をして時間をつぶし た。イェルネを尊敬し,いわばイェルネ教の筆頭信者のようだった分子生物学者,大野乾(すすむ)博士とも,まだ無名だった利根川進博士とも初めてそこで 会った。こうした世界的研究者を集めたのが,イェルネであり,彼が主催するバーゼル免疫研究所だった。

 何人もの研究者と白熱した議論に時を忘れ,気づいたときはイェルネとの面会時間をかなり過ぎていた。ペルニスがあわてて呼びに来た。

 イェルネの待つ所長室のドアをノックしたときは,1時間も遅れてしまった。もう外では,落ち日がライン川を煌めかしていた。

 イェルネは,驚いたことに,所長室のブラインドを全部下ろし,電気もつけずにそこにいた。下ろしたブラインドの隙間から,夕日の光が弱弱しく差し込んでいたのを覚えている。

 待たせた失礼にもかかわらず,彼は機嫌よく迎え入れた。しかし自己紹介が済んでも,椅子には座らせず,討論も始めようとはしなかった。何か気になること があるように,私のほうは一瞥もせず,ペルニスに向かって,「これから私は出かけなければならない。食事にはお前が連れて行ってくれ。バーゼル市内でな く,フランスとの国境の向こうの村にあるレストランに連れて行くように」とそそくさと指示した。

 そのとき,私は気づいたことがあった。閉め切った彼の部屋は,ワインの匂いが充満していた。彼は,部屋を暗く閉め切ってワインを飲んでいたらしい。私 は,世界の免疫学者から神話の主人公のように崇められて,なかなか親しい友人もできないであろうこの巨人の,孤独と寂寥を垣間見たような気がした。

 その夜は,喧騒の街を離れ,イェルネに教えられたフランスの村のレストランで,ペルニスと一緒に食事をした。国境を越えることがこんなに日常のことかと 驚きながら。私はペルニスとともに,すばらしいペッパーステーキの饗応に預かった。上等のワインに,最高のビーフ,さすがグルメでも名の通ったイェルネ推 奨の店だった。昨日までのバーゼルのホテルの食事とは,国境を越えたら雲泥の差だった。

 話題はもちろん,イェルネの日常にもおよんだ。ペルニスは,イェルネと同じアパートに住んでいるらしい。彼もイェルネ教の信者であることが,私にはすぐにわかった。

 バーゼルにはイェルネの崇拝者が数多くいた。どうしてなのか私にはわかる気がした。あの到達できない孤高,間違っているとわかっていても,人を引きつけ ずにはおかない魔法のような魅力,それを構築する知性,まったく別の視点から見る才能,はるか遠くから物事を眺める目,天上の聖性と俗界の行為の奇妙な混 交。

 ペルニスは,イェルネと同じアパートに住んで,彼と毎日のように議論する喜びをこう語った。イェルネは夜中でも,突然ペルニスを自室に呼びつけ,彼の新 しいアイデアが間違っているかどうかを,長時間問いかける。議論は朝まで続くこともある。時には,ペルニスの部屋の階上に住むイェルネが,夜通し歩き回る 足音が響いていることもある。そんな時は翌日彼が何を言い出すかが楽しみだ。

 ペルニスは,イェルネとともに考え,何かを発見する喜びを共有していたらしい。そうなのだ。一流の知性とともにいることの喜びは,その知を共有し,発展させる作業に参加できることだ。

 こんな話を長々と聞いて,私はバーゼルに戻った。バーゼルではまだファスナハトの興奮が続いていた。笛と太鼓が,魔法をかけられた集団の上に鳴り響いて いた。それを聞くと体中が動いて,踊らされてしまう。それはイェルネという魔術師に会った興奮のため,眠れなくなった私の枕に,いつまでも鳴り響いてい た。

 私はその後何度かバーゼルを訪ねたが,イェルネと個人的にはつきあいが深まることはなかった。彼は私を覚えてくれてはいたが,学会などで会ってもよそよそしい会釈を交わす程度にとどまった。

 1976年のコールドスプリングハーバー・シンポジウムですれ違ったとき,イェルネが心なしか寂しげな微笑を浮かべていたことを思い出す。そのシンポジ ウムでは,利根川進博士の「免疫グロブリン遺伝子の再構成」の話題が衆目を集め,イェルネの血清学的研究を基にした「選択説」も,ここ十年余り免疫学を席 巻した免疫細胞間の相互作用の研究も,かつての光を急速に失っていた。新しく勃興した分子生物学の鋭い光の下では,全体を見る古典的免疫学は,弱弱しい最 後の光を放つ落ち日のようだった。

 その後何年かたって,私はアメリカのイーライ・セルカルツ,英国のエイブリオン・ミチソンなど免疫学の理論的側面に興味をもっていた友人と語らい,「免 疫の記号論」という会を計画していた。イェルネの学説が凋落した後,免疫理論で全体的,統一的理解をしようとする者はほとんどいなかった。分子生物学に代 表される徹底した還元主義に座を奪われた免疫学は,いかなる学説も光を失っていたし,本来の生物学としての免疫系に興味をもう一度呼び覚ますものはなかっ た。そんな風潮を憂いて,そのころ盛んだった言語学における記号論を応用し,細胞による認識や,情報交換,使われるサインや多様なメッセージの理解に,記 号論的アプローチが応用できないかというアイデアからであった。

 NATOの援助を申請したところ,幸運にも補助金が下り,実現の運びとなった。場所は北イタリアのルッカの郊外,ピレネー山脈の山荘イル・チョッコだっ た。著名な記号学者の,ウンベルト・エーコも参加した。会議は成功とはいえなかったが,記録は英国のスプリンガー社から出版された。

 問題はかたくななイェルネの参加だった。チョムスキーの生成文法論と免疫系の成立にアナロジーを見出し,興味を持っていたイェルネが喜ばぬはずはないと みんな思った。果たして,イェルネは〈immnosemiotics〉という主題が気に入ったらしいと,連絡に当たったクラウス・ラエフスキーの報告が 入った。

 ところが会の直前,約束のルッカの町に全員集まっても,イェルネは姿を現さなかった。何時間も待ったが彼は来なかった。

 業を煮やして,クラウスがイェルネのいるフランスのシャトーに電話をかけた。何度目かにやっと電話口に現れたイェルネは,憂鬱そうにこう言った。「私は具合がよくない。妻も不調である。私は死ぬのを待っているばかりだ。」

 そして「immnosemioticsにはもはや興味がない。第一ラテン語とギリシャ語をつなげた造語は気に入らない。」と取り付く島もなかったという。

 それが,イェルネとの交流の最後だった。その後もバーゼルに行って,彼の消息を聞くと,「給料日にだけは来るが,ほかには見かけない」とのことだった。研究所は徐々に新所長のフリッツ・メルヒャーズのドイツ合理主義的実学的研究一色に染まっていった。

 そして1984年のノーベル医学・生理学賞の受賞では,モノクローナル抗体を実際に作った業績のミルスタイン,ケーラーとの共同受賞だったが,イェルネだけは何か実物を作ったわけではなかった。いわばコンセプトの発明だった。

 どこかニュアンスが違っていた。もともと一緒にするのは無理だったのだ。選考委員会でも,イェルネだけは反対があったそうだ。イェルネの信者でもあった委員長ハンス・ウィグツェルが選考委員を説き伏せたと巷間伝えられた。

 でも私は,逆にイェルネこそ単独受賞してもおかしくないと思っている。彼のおかげで,この授賞が,世紀の一流の授賞となったとさえ思う。

 彼の仮説「ネットワーク説」(内容については拙著『免疫の意味論』〈青土社〉に詳しく解説した)は,免疫学における「統一場の理論」の可能性としてだけ でなく,複雑な情報化社会を理解し,運営するための普遍的理論として,遠く美しく輝く。学説の美しさとはこういうものだ。アインシュタインの相対性原理に 匹敵する科学思想だ。

 現在の還元主義的免疫学では,忘れ去られたというばかりか,今ではイェルネに言及することさえ異端としてタブー視されている中で,彼の孤高は厳然として高みに輝く。

 そして帝王は,フランスのシャトーの奥深く,人知れず死んだ。

 彼はやっと自由の身になったのだ。今は誰はばからず,イェルネのことを語ることができる。タブーではなくなった。

 近代免疫学の最後の傑出した理論家,預言者,伝道者としてのイェルネに,直接触れ,深い精神的影響を受けた者の一人として,私の想像の世界のイェルネ に,再び語らせることも自由であろう。最後に私の想像上のイェルネの生涯に,二編の詩を贈って稿を閉じたい。全くの想像の世界で,彼と深く交わってきた産 物である。

多田富雄

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