2011年5月16日月曜日

タルコフスキーのストーカーと福島原発のダブルイメージ

遠い古い夕闇のような記憶がよみがえる瞬間というのが人間にはあるようで、それはなんらかを契機として「ふつ」と浮かび上がってくるのだ。今回福島原発の事故はますます心配の度合いを深めているのだが、小生の頭の中では事故以来なにかが引っかかっている。意識にも上らないのだが。説明の付かない「不安感」として、そのなにかが引っかかっているという感覚は存在したようだ。そのなにかが「水」であることに最近気がついた。

「水」のイメージというのはいうまでもなく、福島原発を冷やしながら、漏れ出ている、あの大量の水のことであり、それ以前に津波のことかもしれない。そしてこの「水」のイメージの不安感をもたらす、おそらく小生に取っての根源の一つが1979年のタルコフスキーの映画「ストーカー」である。SFマニアの大学生であった私たちは、大学の有る都会の中心街の片隅に当時あったシネマでこのストーカーを見たのだった。二人ともソ連/東欧SFが好きだったけど、このストーカーの原作者ストルガツキー兄弟のことはちと舐めていた。ソ連には大家がいっぱいいたし(エフレーモフ、ベリャーエフザミャーチンとか)、それに当時はポーランドのレムがなんといっても大御所だったからな。

それはそれとして予見なく見たこの映画はすごい衝撃を我々に与えた。理解できたかどうかは別問題なのだが、それでも理解を超えるなにかに打ちのめされた。相棒は見終わったあと一言もしゃべらず、小生もバスに乗って家に帰ったことは覚えているが、相方と一言もしゃべらなかったことだけはよく覚えている。翌朝、彼は夜の間に書いたという小論を見せてくれた。感想を超えた物語であったが、これをかれは「宇宙塵」に出すという。彼は「宇宙塵」の同人であり、それまでなんども「宇宙塵」にエッセイが採用されていた。

「宇宙塵」というのは筒井康隆や星新一等々が活躍していたSFの同人誌のことである。

さて映画のストーカーである。いろんな風景を覚えているが一番印象的だったのが「水」「流れる水」だ。この映画、見ようによっては舞台が原発事故後の発電所内部という見方もできる。最近の冷却水とストーカーの水とがどうしてもだぶるのだ。

どこかでこの映画再映してくれないものか?  日本人皆で「ストーカー」を観るというのは悪くないかもしれない。

最後にこの映画と福島原発を重ね合わせている方は意外に多いようで、そのなかのお一人のブログをノートしておく。ストーカーの映画写真が豊富(なんと2時間余にわたる
「ストーカー」そのものも見ることが可能だ。英語版だがなのだが、福島原発内部のようにも見えてくる。

核の危機とアンドレイ・タルコフスキー



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