2013年7月28日日曜日

音楽評論とは?音大卒でラフマニノフの2番を知らない!?!

音楽を評論することの意義とはなんであろうか?

まずもって、自分の感動を他者に伝えたいことであろうか。そのためには、聴いた音楽を言語化しなくてはいけない。これが難しい。普通はできない。二口三口で言葉がつきてしまう。情けないことに「凄い!」「感動した」「しびれた!」

さて言語化だが、どのような方法があるのだろうか?
  1. 読書感想文のように、訥々と自分の感想を述べる。作品・作曲家の歴史背景も知らない。専門的な音楽用語も、洗練された言葉も持たない。それでも感動が伝わるような文章はあるのだろうと思う。しかし、表現力に限界があるので、多くの多様な音楽それぞれを、ひとつひとつ評論することは相当困難であろう。
  2. 詩に託す。思いを詩の言葉で表現する。 短歌や俳句では短すぎて困難だろうが、詩で表現された音楽が共感されたとき、この共感は素晴らしいものになる可能性がある。 ただ、現代人は詩になじみがない。詩が当たり前の時代がかつてはあったのだが(多くのヒトが字が読めない時代。もっと言えば、書き言葉がなかった時代)、現代は書き言葉にあふれている。書き言葉が言霊を失いつつある。なじみのない詩が読まれる可能性は低い。
  3. 音楽用語を使い、専門的に解説する。好きなことばではないがアナリーゼを行うわけだ。「インテンポでアゴーギクはあくまで控えめだが、ディナーミクがしっかりしている。」とか「136小節のCをC♭に弾き間違っているが、これが思わぬ効果を生んでいる」。あるいはギリシャ古典の世界を想像しながら「このディオニソス的な通奏低音にアフロディーテ的な右手の美しさと言ったら」(なんのこっちゃら!)
音楽雑誌など最近は読んだことがないし、音楽会にも行かない(クラッシックには行かない。それ以外はよく行くなあ、最近) ので昔の「大木正興」さんや「吉田秀和」さん風の評論をかすかに思い出すだけだが、最近の音楽評論はどんな雰囲気なのだろうか?

新書版の「CD100枚」とか「反クラッシック」とかを読む限りでは、昔と余変わっていないようだが、最近読んだある本に面白いことが書いてあった。

最近の音大の学生は他人の演奏を聴かない、知らないらしい・・・という話だ。それどころか、あるいは私たち一般のクラッシック愛好家なら知らないものなどないような有名曲でも知らないらしい。もちろん、これをもって一般論化するつもりはないが、さもありなんである。その本にはこう書いてある。

最近は音大を卒業しても音楽家になれるわけではないので、音楽産業に就職するものもいる。ある大学のピアノ科を卒業したA君はソニーのクラッシク事業部へ配属されたが、そこでは次の録音予定のある協奏曲が流れていた。それを聴いたA君が「へ〜良い曲ですね。誰のなんという曲ですか?」と質問して、その場の全員を絶句させたという。ラフマニノフの2番だった。ピアノが専門の音大卒でラフマニノフの2番を知らないなんてあり得るのか?

「音楽が好きで好きでたまらないから音楽家になる」わけではないようだ。そうかもしれない。小さい頃からレッスンにつぐレッスンで、言われるとおりにピアノ、ヴァイオリンを猛練習しなければ、音楽大学には入れない(のだろう)。猛勉強につぐ猛勉強をしなければ、「一流大学」に入れないのと同じである。

猛レッスンを続けていく過程で、ホロビッツやグールドやアルヘリッチや内田光子やルイ・サダに溺れる時間はないのだろうか?

またこんな事も書いてあった。


コンサートに同伴するのに一番つまらない方々は、演奏家の皆様だという。あんまり「感動」してくれないらしい。醒めているのだそうだ。演奏が終わると出る言葉は「解釈がどうもね〜〜」とか「技術がイマイチだったね」とか「なにかとnegative points」を捜してしまうらしい。もっと素直に喜んで欲しいのに。共に「感動」を語り合いたかったのに。

「音楽が好きで好きでたまらないなら、もう音楽家になどならないほうが良い」のかもしれない。

でも本当は 

「他人の音楽演奏が好きで好きでたまらない音楽家になってほしい」というのが本音です。


修行中に毎晩のようにコンサートに行くような切磋琢磨が望ましいなあ。他人には甘く、自分には極限まで厳しい音楽家が良いな。

職業音楽家でも、他人の音楽について暖かく語れる人間性は必要だと思う。甘いのだろうか、ワシ。

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