先日NHKのフランス語講座のテーマ曲について記した。70年代の夜11時からの放送であったが、それがYouTubeに採録されており、おそらく40年ぶりくらいに聞くことができ感激したという話であった。小話や小説なら記憶を都合良く再構成、あるいは捏造してしまうのが普通であり、40年ぶりの邂逅にはきっと違和感があるのだろうが、音楽は違う。まったく記憶のままであった。これは発見である。そのことにも感激した。
人間の記憶に関してボクはかなり懐疑的だった、あるいは懐疑的になり始めていたからだ。「そのまま覚えているわけではない」「都合良く覚えている・・・そうでなければ記憶に長く残るはずがない」というのが一般的コンセンサスであり、ボク自身経験的にそう思っていた。しかし40年間も頭の中だけにしまい込まれた記憶を突然試される、それも細部にいたるまで(ある意味論理的に)試される機会を今回得た訳だが、音楽の特殊性を考えざるを得ないのだ。音楽はやはり完璧な芸術なのかもしれないね。曖昧な記憶というのが最も少ない芸術のような気がする。絵は?・・・・細部など忘れている。小説?・・・・記憶はいいようにねじ曲げられている。映画も舞台もそうかもしれぬ。
そう書きたくなるほど、まったく違和感なくほぼ完璧に覚えていた。この間一回も聞いたことがないのにだ。
音楽について語り始めるとやめられなくなりそうなので、ここらで話題を変える。もうひとつ知りたいことが残っているからだ。資生堂の宣伝である。これも30〜40年の間、頭の片隅に残り続けているCMである。70年代の資生堂は今と変わらずイメージが斬新であった。ある意味今よりも先鋭だったかもしれない。団次郎や前田美波里の白黒CM(これもYouTubeで見ることができることを先ほど発見した)をナレートする女声が好きだった。この人は夜の資生堂提供番組の最後に「提供は東京・銀座・資生堂でした」と語る女のナレーターのことでもある。私だけではない。当時の私の周りの友人達はこの資生堂の宣伝をこよなく愛していた。わずかに伝わる都会の息吹というのでしょうかね。小学生の高学年から中学になったころである。テレビの音楽ではグループサウンズ全盛期だったのでしょう。しかし僕たちはラジオに夢中だった。映画では007も全盛だった。マンガは「少年」が廃刊前の最盛期を迎えていた。アトムの「史上最大のロボット」などが連載(1964年06月号〜1965年01月号)されていた。今の「プルート」へのオマージュの原型である。「おらはしんじまたっだ」はこのころだろう。のちに大好きになった風街ろまんはもう少しあとだろう。「はっぴーえんど」も最初は随分胡散臭く見えた。松本隆の歌詞の漢字は難しかったしな。もちろん四畳半フォークなどまだない、まだまだ良い時代だったのだ。フォークというのは反戦であり学生運動と等価値に見えたので、理屈が背後にあり、子供であった小生には縁遠かった。小学生や中学生のガキが岡林信康を聞くはずなどないだろう。せいぜい「友よ」くらいか。そんな時代。
さて、その資生堂のナレーターは誰だったのか?実は先日資生堂の広報室に聞いてみた。三保敬太郎と同じ日にだ。すぐに返事がきた。このあたりNHKといい資生堂といい素晴らしい。
返事を掲載してみよう。
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XXX様
日頃は、資生堂製品をご愛用いただき、誠にありがとうございます。またこの度は、1970年代の弊社提供テレビ番組に関心をお寄せくだ
さいまして、重ねてお礼申し上げます。
早速ではございますが、1970年代のCMのナレーションのほとんどは
上原一美さんが担当されていました。
以上、簡単ながらご案内申し上げます。
また何か、ご質問、ご感想などがありましたら
お気軽におよせくださいませ。
資生堂お客さま窓口 XXXXX
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だれだろう、上原一美。
三保敬太郎はネット検索するととても情報が多い。CDまで出ていたので購入してみた(廃盤であり古書ネットで手に入れたが)
上原一美さんはほとんどネット検索に引っかからない。北陸金沢あたりのローカルなアナウンサー情報がちらりと引っかかるがご本人と同一かどうか不明だ。ボクはこの人のことが知りたい。非常に興味がある。もう一度あのナレーションが聞きたい。今のテレビやラジオではあり得ない気品である。
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