2011年4月13日水曜日

原発供養:内田 樹さんならではの素晴らしい論考...

しばらく見てなかったので大事なことを見逃してしまうところであった。内田樹さんは原発事故以来ブログでいくつかの発言をされているが、この「原発供養」というのが一番心に響いた。この論考は直ちに今の福島原発事故収束には役に立たないかもしれない。だけど福島以外の、それぞれの地域にある他の原発とどう折り合いをつけるか、それは福島以外の地域の住民のこれからに大いに関わってくることだけに重要なことである。

このような重要な論考の一部を引用することは、本当にはばかられることだが、小生も「鎮守」ということが漸く身にしみて、わかってきただけに、是非引用させていただきたい。

・・・・だから、本来であれば、「原子力」は天神地祇を祀る古代的な作法に従って呪鎮されるべきものであった。
伝統的な日本的なソリューションは「塚」と「神社」である。
「荒々しいもの」は塚に収め、その上に神社仏閣を建立して、これを鎮める。
将門の首塚も、鵺塚も、処女塚も、「祟りがありそうなもの」はとりあえず「塚」を作って、そこに収める。
塚に草が茂り、あたりに桜の木が生え、ふもとに池ができ、まわりで鳥や虫が囀るようになれば、それは「生態系」に回収されたとみなされる。
自然力に任せておけないときは、神社仏閣を建てて、積極的に呪鎮する。
それでもダメなときは、「歌を詠む」「物語に語り継ぐ」という手立てを用いる。
日本では内戦の死者たちは物語によって呪鎮されてきた。『平家物語』は平家の人々と源義経・義仲らを、『太平記』は楠木正成や新田義貞ら敗れたものたちを 弔った。幕末の戦いについては、子母澤寛、司馬遼太郎から藤沢周平、浅田次郎に至る無数の作家たちが殺された若者たちのために鎮魂の物語を紡いだ。・・・・


・・・・「原発神社」
そして、桜が咲く頃には地域の人を集めて、「原発祭り」を挙行する。
荒ぶる神がとりあえずは「よきこと」だけをなし、恐るべき力の暴発を抑制してくれていることを感謝するのである。
私はふざけてこんなことを言っているのではない。
日本人は「こういうやりかた」をするときにいちばん「真剣」になるからである。
ほんとうに「こういうやりかた」をして原発を管理運営していたら、今回のような事故は起こらなかっただろうと私は思う。
それは私たちのDNAの中に根を下ろした「恐るべきもの」との「折り合い」の仕方だからである。
呪鎮の目的は「危険を忘れ去ること」にあるのではない。
逆である。
「恐るべきもの」を「恐るべきもの」としてつねに脳裏にとどめおき、絶えざる緊張を維持するための「覚醒」の装置として、それが必要だったと私は申し上げているのである。
現に一神教文化圏では原発は「神殿」に収められていた。
彼らのDNAの中に残る「超越的なものを畏怖する気持ち」をONにしておくために、そのような装置を用いたのである。・・・・・


・・・・・私は骨の髄まで合理的でビジネスライクな人間である。
その私が言っているのだから、どうか信じて欲しい。
今日本人がまずなすべきなのは「原発供養」である。
すでに「あのお方」がなされているとは思うが。・・・・・

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