実際に落語や時代劇に一両が出てくることがよくある。そんなとき「この一両にどれほどの価値があるのだろう」と思ってしまう訳だ。
人情落語の代表「文七元結」では呉服屋の売り掛けが50両、これは女郎屋に身を売ったお久の身代になるわけで、文七は主人の手前50両を盗まれたことで自殺を考える。主人公長兵衛は 50両なら来年の暮れまでに左官の仕事をまじめにやればなんとか返せる額だが、その倍100両ならもう無理だと判断するそんな金額なんだな。どうだろう? 10万円として、50両500万円ならなんとかなるが、その倍1000万円の返済に絶望的になるのは分かるような気がする。もっともこの落語「文七元結」では長兵衛は娘を女郎屋に預けて得たなけなしの金50両を、その帰り道見ず知らずの文七にいきなり呉れてやろうというのだから豪毅な落語である。
関西の落語「算段の平兵衛」では、不審死の隠蔽工作を頼むのに25両を用意する。明るみに出たら打ち首覚悟の算段であるから、余程のことが無ければ引き受けかねるところであるが、これを主人公平兵衛は25両で引き受ける。「文七元結」と同じ一両10万なら250万円であるがこれは安すぎるような気もするなあ。もっとも平兵衛は同じ死体で2度儲けるはめになるので500万円でこれならあり得るかもな。この落語は悪人が世にはばかる極めて不謹慎な落語だけど好きですな。
志ん生の名調子が結構な「火焔太鼓」では、思わず売れた古くて得体の知れぬ太鼓の値段が300両で、その金額に狂喜する古道具屋夫妻のやり取りが抱腹絶倒、この落語の真骨頂ということになる。お大名だから払ってくれたのだが、先ほどの換算でいくと太鼓ひとつで3000万円であるから、そりゃ有頂天になるというものだ。
こうやってみていくと、落語で「両」が登場する演目は極めて多いのだ。
江戸期のお相撲さん、十両というのは給金が一年で10両という身分のことで、先ほどの例で行くと100万円だ。これでは安すぎるかな。20万円で200万だから、これくらいかもしれぬ。
ここ一年くらい「落語」をよく拝聴する。志ん生、志ん朝、圓生、桂文楽、小さん、米朝、立川談志、談笑、円楽といろいろ聴くが、ここで今時分の好みを書いておこうか・・・。自分の好みをさらけ出すのは恥をかくようなものだから、やめておこうかしらん、どうしよう。この世界「もの言えばくちびる寒し」でありいろいろ難しいことを言ってくるヒトが多いようだが、文句はいわないでくれ。
落語は本当に楽しい。面白い。今はいろいろ音源が町のCD屋にあるから、片っ端から聴けるのだ。図書館の音源だと「ただ」だよ。これを聴かずしてじいさん、ばあさんになるのはもったいない。そんな気が最近してなあ、熱く聴いているよ。
- まあ一番好きな落語家が 三遊亭圓生だといえば「まあそんなものかと」いうヒトも多かろう。「文七元結」「庖丁」なんていいよ、味があって。
- 「志ん生」がよく分からない、というと「えー」と言われそうだが、これは彼の言葉がよく聞き取れないからなのであって、それほど深い意味は無い。小生には「志ん生」を聴くことはTOEICのリスニングを受けるくらいの緊張感がともなうのでハッピーになれないだけ。火焔太鼓はまあ好きな演目だが、「替り目」や「大工調べ」だと余程神経を尖らせないと、細かなところがよく聞き取れないんだもの。
- 円楽が好きだというと、また「えー」と言われそうだが、これは彼の「目黒のさんま」をこよなく愛する小生としては外せないのである。秋に円楽の「目黒のさんま」を聴いてご覧なさい。もうさんまが食べたくて食べたくて仕方がなくなるから!
- 小さんはいいなあ。だいたい小さんや圓生や米朝や志ん朝だとリアルタイムにテレビやラジオで寄席の中継を聞いていたものだ、子供の頃。だから安心して聴ける。
- 立川談志は聴かないようにしている。落語を200演目くらい聴いたなと思える頃に聴き始めてみようと思っている。これはその弟子の談笑を思わず聴いてしまったからである。それがどうしたって? まあな、いろいろ感ずるところがあってだな、止めとこうと。
私も圓生、志ん朝は良くCDで聞きます。加えて桂文治、存命の小三治も好きです。
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