ノーベル物理学賞には驚いたのだ。3人とも日本人であることが素晴らしい。赤崎先生はいかにも薩摩男児であり、威厳のある学者である。こんな学者・博士が昔は多かったと思います。天野先生は現役バリバリの現代風の教授であり、これからも楽しみです。中村先生は受賞がかなって本当に良かったと思います。中村さんではなく中村先生であり中村教授である。ノーベル賞受賞者には尊厳をもって尊敬の気持ちを持って接せねばなりません。
中村修二先生のエピソードは同時代的にこれまで聴かされてきたし、例の裁判での数百億円には驚いたとともに、日本もやるなあと感心したが、そのあとがいけない。結局日本では発明者の対価に関してはあやふやになっちゃったようだ。日本の企業では利益をもたらす発明をした研究者には、年齢を重ねて管理職世代になったとき重役に遇して、そこで高給を払うという形が多いようだが、これで満足できない人は多いと思います。
それにしても中村先生と日亜化学とのつかず離れずの関係は面白い。中村先生は文句の人であり、それを対外的に口外するという、極めて非日本人的振る舞いが可能な人だ。それでも日亜化学は止めさせなかったし、研究費は出したし、留学もさせた。裁判を一緒に戦った弁護士が中村先生のことを「天才」と呼んでいたが、やはり今の日本には稀な、極めて稀な「天才」なんだろうと思う。なんかやりそうだから、研究を続けてもらったんだろう。
面白かったのは、最先端研究であり企業秘密をやっていたので会社として「論文」を書くことを禁止していたにも拘わらず、中村先生は「論文」「学会」の形で成果を公表していたということ。これを会社はしぶしぶ黙認していたのだそうだ。これだけ会社に逆らって、研究生活を続けるのだから、続けられるのだから、すごい力のある人なんだろう。
当時の学会に参加したらさぞや面白かったことだろうと思う。赤崎先生と中村先生の丁々発止の論戦なんかがあったのだろうか?
そういえば昔の医学生物学の学会の一部も面白かった。 真剣だった。怖かった。会場からの質問が怖かった。強烈な上から目線でいびり倒してくる論者も多かった。
ある年の病理の学会で座長の先生がある演者の発表の途中で烈火のごとく怒り出して突然「止めろ、もういい。君の発表はもう聴きたくない」「二ヶ月前に別の学会でしゃべった内容とほとんど同じじゃないか。恥ずかしくないのか、君は!席に戻りなさい!」と・・・・言われた演者はまっ青になって、も一言もしゃべれず、発表は中座となった。
この後が面白かった。出てくる演者がびびりまくっていた。でもなかにはその座長を全く無視し、意に介さない侍もまたいたものだ。かならずけんかをふっかける研究者というのがいた。学会の論戦は人間味があって面白かった。
さて中村先生「論文」や学会で公表していたからこそ、今の評価があるわけだ。ノーベル賞受賞の根拠である。
これだけ会社に逆らって、研究生活を続けるのだから、続けられるのだから、すごい力のある人なんだろう。と書いたが、これ今の閉塞感あふれる日本ではとても「空気」が許してくれそうにない。こんな人を許す風土が日本から全くなくなってしまっているのに気が付く。2チャンネルなんかで、さんざん叩かれるはずである。
研究は1000やって一つしか実を結ばない。会社は1000の研究の推進に莫大な投資をしているから、実を結んだたった一つの研究の対価をたまたま上手くいった研究者に正当に支払うことはできないというのが日本の企業論理である。 なんとなく納得してしまうそこのあなた。これを絶対におかしいと言い続けたのが中村先生だったのだ。そして小生もおかしいと思う。
100の利潤のうち100全部よこせといったわけではないのだ。10ほどもらいたいと言ったに過ぎない。それを0.1くらいで手打ちにさせたのがあの裁判の顛末だったということなのだ。
なんにせよ、ノーベル賞本当におめでとうございます。テレビがいっている「こんなにわかりやすいノーベル賞はこれまで例がない」と。Blue Ray discなんてそうだよね。青色そのものだ。
さて今日はノーベル文学賞である。日本時間で8時発表なんだそうだ。村上春樹の受賞を心から期待したい。
小生的には今晩でノーベル賞は終わりだ。平和賞と経済学賞は興味が持てないから。
ただ今年の平和賞で日本国憲法第九条が受賞したら面白いと思う。安倍首相が受賞でストックホルムに臨むとしたら、こんな皮肉なことはない。もちろん小生は九条が受賞したら、こんな名誉なことはないと思います。それくらい日本には「今の九条」が必要だと思いますから。
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