2015年6月14日日曜日

聴くとは、動けなくなることだ。





















ここから引用。

とても良い言葉である。 ひとは音を、言葉を、楽曲を、選んでしまう。絵も写真も文字もそうだ。視覚的にも選んでしまうようだ。端的にいえば、聞きたいから聴く。見たいから観る。でも時にハッとする。聞きたいとも、見たいとも思っていなかったものに出くわして。

さて、ハッとすることがなくなった自分に気がつくことになったらずいぶん寂しいことだろう。これからも身じろぎできないような瞬間に出会いたいものだ。

鷲田さんの折々の言葉は順調だ。鷲田清一先生は阪大総長時代にその講演をお聞きしたことがあるが、素晴らしいお話だった。それこそ身じろぎできなかった思い出である。総長にこのような人材(失礼!)を持ってこれる大阪大学の懐の深さには感心した。鷲田先生のお話は「とてつもなく深い真理」を18歳の高校卒業生の体の深いところに注ぎこむというようなお話であった。気持ちよく聞いていられるが、聞いた当初はわからない。20年くらい経つとじんじん効果が現れるというような話である。こんな話は理系の先生からは聞けないなあと今更ながら思うのは、最近国が大学の文科系学部を縮小(廃止?)するとかいう政策を打ち出したからだ。

この「折々の言葉」のようなコーナーに文科系のエッセンスーひとつの極致が現れていると思うのだが、このようなものが無駄だと思うひとがいるのだろうね。とんでもなく残念なことである。鷲田清一先生のような方を一人産むのには同じような志を持つひとが1000人はいるだろう。このようなことを述べているのが、最近の内田 樹である(たとえば「旦那芸について」)。小生は「保守」という言葉があまり好きではないが、鷲田さんや内田さんの考えておられることの根幹はまぎれもない保守のような気がする。彼らの言葉が好きな小生は、実は「保守」なのかしら。

内田さんも頑張っているのに最近はマスコミが無視を決めている。一時は「朝日新聞」もよく投稿を取り上げていたが、久しく投稿を見ない。ここ二〜三年くらいは大江健三郎とも疎遠のようだし最近「朝日新聞」まで転向しているような気がしてしょうがない。そんなことをしたらますます売れなくなりますよ朝日さん

今頑張っているのは憲法学者の先生方である。「曲学阿世」にはなりたくないという矜持があふれている。

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