小生がとても好きな物書き(作家でもない、エッセイストでもない。哲学者?思想家? いずれでもあるような気はするが、取り敢えずここでは物書きと言っておく)内田樹氏のことは何度も何度もこのブログで取り上げた。
ここ一~二年、大手マスコミがこの方の無視を決め込んでいることが、どうにも小生には歯がゆくてならない。マスコミは例の国会前の防衛法案反対ストあたりから自己規制を始めている。
内田さんの本を小生おそらく30冊 以上読んだが実は最近の新しい書物群(いまでも精力的に出版しているのは知っている)には縁がなかった。
でもネット上にあるいろんなエッセイ(彼のブログ など)は気がつく限り読んでいる。頑張って欲しいと思うし、それ以上に世間が再度内田樹に注目することを期待し念じていた。
そんな私に驚くべきことが起きた。本日の東京大学の国語の問題文に内田樹の文章が取り上げられたのだ。
東京大学の世間に対する強烈なメッセージと私は受け取った。内田樹を取り上げることが現況下どのような意味があるのか東京大学が意識しないわけがない。一旦取り上げたらどのような捉え方をされるのか大いな る覚悟を持っての出題なのだ。痛快だ。
その文章の最後を飾る段落を引用しよう。この反知性人が誰を暗喩しているかここでは問わない。一人かもしれない。複数かもしれない。潜在的受験生である高校生たちにしっかりとこのメッセージ性を受け取ってもらいたいと思うのは小生だけではなかろう。
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