今朝新聞を読んでいたら、詩人の谷川俊太郎さんの詩に気がついた。
この詩がいいんです。何度も何度も読むがますます良いので、忘れないように写メを貼り付ける。(谷川さんも著作権云々なんて言わないだろう・・・ホントかね?)
旧知の96歳は、すなわちご自身でもある。
口が達者でスマホを枕頭においている高齢者は、当院にもいくらでもいる。
ChatGTPが大好きな90歳になったばかりのおばあさんも知っている。
世の中が気になって仕方がない、のではなく、気にしているという温度感が良い。
死のうが朽ちようが人にはまだ先がある・・というのは、すでに自分を離れて、後世のことを言っているような気もする。この「人」というのは「人類」のことを言っている。ある意味で達観とはこんな境地か。
あるいは96歳の自分の未来への未練のほうが、あるいは「たのしみ」の方が大きいと読むか?
文鳥を誤って逃したことを、ほどなく超克できる人間に僕もなりたい。文鳥にとっては新たな旅立ち、それが家出なんだと。長い間変わることがなかった状況の突然の転換に即応できてしまう。なかなかできることではないが、パラダイムの変化に柔軟に対応できてしまう。
できてしまう人になってしまった・・・か?
哀しいくらいですな。
あるいは乾杯という「見栄」をきれる人でい続けたい。これならできそうだ。得意です。
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