2012年1月14日土曜日

あの人は今:論文の査読と英語添削者

【論文の査読】

英語で論文を書くことなどもうないが、しかし縁があって英語雑誌のreviwerやassociate editorの仕事はまだ続けている。associate editorの仕事の方が多く、年間30編くらい処理している。実際のところ、「処理」であって、じっくりreviiewをするわけではないが、時にreviwerがまともに仕事をしてくれていないことがあり、そんなときはしょうがないので自分でじっくり読みこなし、時に文献を探り、一生懸命添削するのである。

ケチを付けるのは簡単だが、そこにはやはり雑誌のレベルというものがあり、これで落とされたらかなわんだろうな・・・・というような
惻隠の情は働くのである。一方、「このいい加減な草稿」で通されたら雑誌発行人がかなわんだろうな・・・・・というような怜悧さも時に発揮することになる。
associate editorを続けることの良さは、最新の研究報告とそれを批評するreiewerのやり取りが生々しく眺められることである。もちろん雑誌を読んで、時に学会に出かけ勉強を続けることも大事であるが、小生の場合これは一向に苦にならない。ボケ防止にもいろいろあるだろうが、雑誌のreviwerやassociate editorを続けるというのは悪くないと思う。

英語の添削

自分で英語を書くことを最初に経験したのは大学を卒業して3年目の夏であった。ボスの教授に「症例報告を英語で書きなさい」といきなりいわれたのであった。助教授に相談に行ったところ「自分でゼロから英作文をしてはいけません」「欧米の論文の良い表現を借りてきてつなぎ合わせることが初心者の場合なによりも大事である」と言われたので、ひたすら関連論文を読み、良いと思われる表現を借りてきて、それをつなぎ合わせた論文を作った。正直情けなかった。中学・高校と英語を6年もやり、英作文もやってきたのである。自分で作文してはいけないといわれてもなあ。

ところがである。出来上がった草稿を教授のところに持っていったところ「ほー。初心者のわりにはなかなか上手である」と存外の評価をもらった。少しうれしかったが、翌日帰ってきた教授の添削は凄まじかった。きれいな赤ペンで添削の嵐である。ほとんど迷ったあとがない。初めから流暢に添削してあるのである。正直凄いと思った。それをタイプで打ち直して、若干の教授の疑問点に答えた文章に作り替えて再度提出すると(戻ってきた翌朝に再提出しなければご機嫌悪い)、その日の夕方には再度赤ペンの嵐が戻ってくる。時には御自分の前日の校正文章を再度書き直してあることもある。

このような添削を3〜4回繰り返す。そして最後にネイティブの英語の添削者に英語を見てもらうわけである。これをファックスで繰り返す。しかし、それまで教授に十二分に添削されているので大きな変更はまずない。aやtheの使い間違えなどが主たる変更点である。そして欧米のジャーナルに国際郵便で送るのだが、これは今のネット時代と違って、なんかかっこいいのである。なんだかわからないが、自分がひとかどの人物になったような気がするのである。

小生の場合英語の添削というと、まずもってこの教授のことが思い出される。まったく凄い方であった。一回その英語について質問したことがあるのだが、「こと英語で物を書くことだけに限れば、この町のどの英語の先生よりも自分は自信がある」と言われたことがある。その時私が住んでいた町は100万人以上の人口を抱える大都市であったから、これは相当の自信であろう。

その後自分で英語の校正を頼まれる立場になり、かつてのボスの実力がますます凄かったんだと身にしみる。研究論文としての質の向上に加え英語の質の向上をはからなければならないわけだから。一読して、さらさらと赤ペンで校正ができるくらいの実力がなければ、オーベンにはなれないのであろうな。とは思ったが、正直そこまで英語の実力がある方にその後であっていないので、小生の最初のメンターが特別だったんだということなんだ。普通はそこまでの実力はないのだと、最近ようやく分かったのだった。

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