2012年10月10日水曜日

村上春樹:before and after

村上春樹はノーベル文学賞を取るのであろうか?これは山中iPSと同じくらい小生には興味深いテーマである。

川端康成の小説がどこまで世界的な普遍性を持っていたのかボクにはわからない。川端さんの小説は面白いのであるが、これは本当にドメスティックな日本固有の物語のように小生には思えてならない。当時の時代的・世界的背景といえば、「エスニックな極めてローカルな世界(世界のガラパゴス:日本)の中にもある種の西欧と同等の普遍性を見出し、これを面白がった西欧人という構図」に見えるのがあのノーベル賞かしら。

大江健三郎の小説はといえば、小生には語る資格がない。いくつかの小説、万延元年のフットボール、飼育、奇妙な仕事、性的人間くらいしか読んだ記憶がないのだ。高校生くらいまでのものしか読んでいないので、語ることができない。

一方、村上春樹ならこれはほとんど読んでいる。小生が少なくとも主要作品をほぼ読んでいる数少ない作家の1人である。本当に謎の多い作品群であるが、一生懸命謎解きをしたくなる要素と、読むことそれ自体で(深く考えることなくても)魂が揺さぶられることが多いことから、なかなか読むことを止められない。

この作家が多くの国で翻訳されていることが面白い。政略的に翻訳されている一部の作家とは違って、この翻訳出版は商業的にも成功している類の話なので、様々な国にボクと同じような読者が多くいるということだろう。 一番スリリングなのは、彼の本の中に日本ローカルを遙かに超えた普遍性があるに違いないということ、しかもこの21世紀の現代においてもだ。それがどこに由来するものなのか、もし村上さんがノーベル賞を取ったら、もっともっとはっきりして来るだろうことが、ボクには待ち遠しく思える。

日本人による絵解きとは全くことなる絵解きが聞いてみたい。日本人のボクには全く意外な謎解きが聞いてみたい。

もっといえば、作家の意図をはるかに越えた解釈というものを、もっともっとたくさん楽しんでみたいのだ。

作品を書いた瞬間から、作品は作家を越えるのだ。作家が意図したことなど矮小な些末なことになってしまうことさえあるのだ。その乖離が大きければ大きいほど、偉大な文学作品ということになるのだろう、きっと。

本当はボクは 村上春樹を理解していないのかもしれないね。でも好きなのだよ。これまでいろいろな説明・解説を聞いても解ったような解らないような、なんとなく「もやもや」したいくつかの小説があるのだが、世界の様々な人々が様々な文化基盤をもとに解釈したお話しが聞けたとしたら、ひょっとして「もやもや」が解けるかもしれないねと思うわけだ。


そんなafterを期待したbeforeな話なのだが、これは今日が最後か。あるいはまた一年、また一年と待たされ続けるのか。もうbeforeは本日までにしたいね。

それと更にもう一つ。川端さんの時代は西欧文明がまだまだ世界の主潮流だった時代である。レヴィ=ストロースがサルトルを論破したといっても、あくまで西欧が中心であったから成り立つ構図であり、衝撃性であったわけだ。今は違う。西欧文明が自信を失ってしまった時代だ。かといってアジア/アフリカ圏がこれに変わる強力な視座を提供しているわけではない。
もがいているのだ、現代は。世界中の人が世界の成り立ちに、世界の今後に不安を抱いている。文明の中心はフランスにもチェコにもポルトガルにもアルゼンチンにもベネズエラにも、そして韓国にも中国にも日本にもないのである。そんななか、世界の人たちが村上春樹を読んでいるという構図が誇らしいのである。いや違う。その構図が暗示的であるとでも言ったら良いのか・・・・。

この作家は日本人が考えている以上の存在なのかもしれないということだ。国内であれやこれや言われるような、そんなちっぽけな存在ではないと強く思うのだ。

 


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