いい加減飽きてもよさそうであるが、こればかりはますます好きになるのだからしょうがない。
医学生の時分に最もよく聴いたのは「弦楽四重奏曲」であり、そのうち「ダフニスとクロエ」や「海」などのオーケストラ、医者になりたてのころダン・タイ・ソンのコンサートで「ラ・ヴァルス」のピアノ独奏版を聴いてからは「ラ・ヴァルス」「ラ・ヴァルス」「ラ・ヴァルス」
アメリカ留学中にアビー・シモンのピアノ「クープランの墓」を聴いてからは「クープラン」「クープラン」「クープラン」あるいはピアノ曲であり、この時以来手持ちの「クープランの墓」は40CDに届こうとしている。
ラヴェル全曲盤も持っているし歌曲集も持っている。「マダガスカル島民の歌」も持っているが、これが尊敬してやまない今年亡くなられた岡田節人先生の琴線に触れたというエッセーを仄聞しとてもうれしく思う今日このごろである。
小生の周りにクラシック好きはそこそこいるのだけど、ラヴェルが好きなひとなどまずいないことは残念だ。せいぜいドビュッシー好きが近いところと世間では思われているようであるが、これも微妙でして、ドビュッシー愛好家は多いし世上エッセイ集も多いのだが、この人たちは微妙にラヴェルを無視する。ドビュッシー愛好家=ラヴェル好きとはならないのだ。
一般にラヴェルは正確無比で非人間的だと思われているようだ。 ラヴェルは人間の苦悩や精神的な高みとは無縁と思われているようだ。そういうわけで若い頃ラヴェルにハマったクラシックファンは大人になると改宗するのである。「若気の至りでついハマっちまいましてね」
でもこんな通説は嘘だと思う。どこが非人間的なのだ。精神の高みって何?
彼らは正しく大人になるとベートーヴェンやブラームスに戻っていき、せいぜいシューマンやシューベルトを副食にしているように見える。たとえば 宮城谷昌光 という歴史小説家がいるが彼の「私だけの名曲1001曲」という解説本(こんなに分厚い解説本もいまどき珍しい)でもラヴェルの扱いは最低である。こんなにけなすなよ、というくらい作家の筆は冴える。
ラヴェル好きなど、うっかり公言できないクラシック(アマチュア)界である。
そんなわけで小生は自分の感覚にいまひとつ自信を持てずにこれまでやってきたが、でもかれこれこの世界に足を踏み入れて40年が経つわけですから、ここまで来てまだまだ魅惑されているということは、もう十分「いなおっちゃっていいかな」と思います。
ボクに言わせると21世紀を生きる現代人にこそラヴェルの音楽はピッタリだと思う。40年付き合ってきてそうとしか思えない。
ボクの予想ですが、これからの若者はますますクラシックから遠のいていくが、その中で最も急速に聞かれなくなるのはまずモーツアルト。この不安の時代にモーツアルトを手に取ることができる若者はよほど恵まれている。
この時代で悩み、不安におののく人々にラヴェルは寄り添う音楽として、実はすぐそこにいるのだよ。距離感が実にいいのです。この微妙な距離感が昔は「非人間的」だと思われていたに過ぎないとボクは思う。
というわけで、ラヴェルが人々に聞かれる時代が十分予感される。忘れられかけた癒し系の曲群です(単純ではないが)。
最近ハマっているのはピアノ三重奏曲です。この二年くらいよく聴いているのは下記のYoutubeの動画です。この演奏で○○重奏曲という分野に足を踏み入れた。過去の名作と言われているピアノ三重奏曲も聴いている。大公とかチャイコフスキーのそれとか。
でも私にはラヴェルの「ピアノ三重奏曲」が別格の高みに感じられる。素晴らしい。2017年の悩める小生の気分にぴったりだわ。
ヴァイオリンを弾いているのはARIANNA WARSAW-FAN RAUCH
ラヴェルピアノ三重奏曲をこよなく愛する人を一人リンク。
・・・もし近所のコンサート・ホールでラヴェルのピアノ三重奏曲をやってくれるなら、私なら仕事を休んででも聴きに行くのに(笑)。・・・
以下「ピアノ三重奏曲」についての参考サイトである。
ピアノ三重奏曲を考える
- ベートーヴェン「大公」
- シューベルト:1番
- メンデルスゾーン:1番
- ブラームス:1番
- チェイコフスキー
- ドヴォルザーク「ドゥムキー」
- ラヴェル
- シューマン:3番
- ショスタコーヴィチ:2番
ピアニストにやさしいピアノ三重奏曲
・・・Ravel や Tchaikowski のように絶対無理な曲が大半なのですが・・・
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