60年代はどうであったか?
1960年 後天的免疫寛容の発見
1961年 内耳蝸牛における刺激の物理的機構の発見
1962年 核酸の分子構造および生体の情報伝達におけるその重要性の発見
1963年 神経細胞膜の末梢および中枢部における興奮と抑制に関するイオン機構の発見
1964年 コレステロールおよび脂肪酸代謝の機構と調節に関する発見
1965年 酵素およびウイルス合成の遺伝的制御に関する発見
1966年 発癌性ウイルスの発見
前立腺がんのホルモン療法に関する発見
1967年 視覚の化学的、生理学的基礎過程に関する発見
1968年 遺伝暗号とそのタンパク質合成における機能の解明
1969年 ウイルスの複製機構と遺伝的構造に関する発見
60年のメダワー、マクファーレン・バーネット卿らの受賞は実験免疫学の大成果であった。当時なんども何度も月刊日経サイエンスの付録雑誌で特集が組まれたものだ。まずこの研究の背景にはバーネット以前に、まずコンジェニック・シンジェニックなマウスの系の作成がある。これには米国ジャクソン研究所による極めて息の長い努力があった。遺伝学(免疫遺伝学)的にほぼ同一のマウスの系統作成という地道な作業である。メーン州アカディア国立公園内にジャクソン研究所はあるが、当時免疫学をやった人間でジャクソン由来のねずみたちのお世話にならなかった者はいないはずだ。B6, C3H, C57BL等々である。バーネットに戻れば彼らはそこで皮膚移植を繰り返したわけだ。拒絶される皮膚と受容される皮膚。そこに後天的な「免疫のおめこぼし現象」すなわち寛容を見出すのである。
61年の蝸牛神経生理はフォン・ベケシーによる単独受賞。学生時代に生理学でみっちりその名前はすり込まれたよ。「風にそよぐ葦」だね、あの有毛細胞は。63年の エックルズ、 ホジキン、 ハクスリーの神経伝達の実験もヤリイカの巨大軸索とともに生理学の伝統芸であった。67年の視覚生理学。この辺りは純粋生理学の全盛期を反映する受賞が続く。
64年のコレステロールはほとんど小生の記憶にない。コレステロールもノーベル賞のお家芸であるけどね。
臨床的受賞としては66年のハギンスによる前立腺癌のホルモン治療がある。彼は1941年に睾丸摘出術と大量女性ホルモン投与法の併用で前立腺癌の予後を大きく改善させたという報告をし結局25年後のノーベル賞を得た。この年は全く異なるもう一つのテーマで受賞者がいる。ペイトン・ラウスである。Rous Sarcoma Virusである。ウイルス発癌の皓歯である。ただし日本人としては同時代の藤浪さんを忘れてはいけない。ラウスと同時代の京都大学教授・藤浪 鑑による藤浪肉腫ウィルスのことだ。藤浪さんは早死にした。ラウスは受賞時87歳、ラウスウイルスの発表からは55年が経っていた。ぎりぎり時代がラウスに追いついたわけだ。藤浪さんは残念でした。
60年代残りの受賞はすべて「分子生物学の夜明け」を実証するものであった。62年ワトソン・クリックによるDNAの構造決定と遺伝学への示唆。65年のジャコブとモノーのオペロン説とアロステリック効果。作業仮説としては素晴らしい。同じ作業仮説でもイエルネのイディオタイプ・ネットワークセオリー(84年受賞)は今やかえりみるヒトなし。68年はホリー、コラーナ、ニーレンバーグ。それぞれが少しずつ違う仕事をしているが三つ組みとアミノ酸の対応解明であることは間違いない。そして伝説のモスクワ生化学会。最後に69年は分子生物学の巨人、マックス・デルブリュックの単独受賞。的外れかもしれないがこのマックス・デルブリュックというのは数学の世界でのグロタンディーク(アレクサンドル・グロタンディーク)をつい連想してしまう。これら60年代受賞の一連の研究で「大腸菌の分子生物学」は完成した・・・・・と小生は今となっては思う。
さて「大腸菌で正しいと証明されたことはゾウでも正しい」というのはモノーの有名な言葉であり、大腸菌を使って遺伝の分子機構・仕組みはほぼわかったのだから、これ以上高等生物で同様の研究をやる意味はないとの宣言である。これにて分子生物学は終わり、という終了宣言だった。これが60年代の始まりであり終わりだった。これを信じて別の生物学を開始した一番有名な学者が線虫の生物学というテーマで最近ようやくノーベル賞を受賞した南アフリカ出身のシドニー・ブレンナーである。このブログでは何度も述べたがブレンナー大好きな小生としては、生きててよかった受賞してよかったなあ、ブレンナーさんよ・・・と言いたいのだ。
で60年代の総括であるが、やはりワトソン・クリックのdouble helixが群を抜いている。御本人自身は哲学的とはとても言えないが(クリックにはその気配は若干あるとはいえ)研究内容は現世人類の世界の把握に決定的な影響を与えたわけであり、並の哲学書を遥かに超える世界観の提出なのであった。before-afterがこれほど歴然とした研究もないと思う。afterの世界にいる小生たちには、すでにbeforeの世界観は想像できないという意味においてだ。ワトソンがまだ生きているというのも不思議な感覚である。革命を共に生きた(といってもリアルな革命そのものは小生の生まれる前か、幼少時に進行しているわけであるが)感覚はやはり小生の意識の中には明らかにある。面白い時代だったということであろう。
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