小生のような立場でアカデミアに触れている実感を忘れないためにできることは学会に出席すること、本を読むこと、論文を読むことであるが、実はもう一つ変わった手段がある。査読である。
大学を離れて10年になるが、ある機縁で雑誌の査読業務をほそぼそと続けている。自分が査読者(reviewer)になることはもう少なくなったが、これは年に5回くらい。今の私はreviewerの差配をやることが主な業務である。これはreviewerをするよりは楽であるが、それでも雑誌のレベルをより引き上げなさいという通奏低音はいつも聞かされるから、長く続けるとそれなりの責任は感じるものである。ゆっくりでもIFが上がっていくと嬉しいのである。アクセプト率というのがあり、査読差配師(associate editor)にはこれを守ることが求められる。これがなかなか難しい。
近年査読を引き受けてくれる人が減ってきている。小生が査読差配師として関与する雑誌は国内が2冊、国外が3冊程度(いずれも英文誌)であるがいずれの雑誌でも同様の傾向がある。
最近思うことを列挙してみたい。
- 査読者に指名されたらすぐに反応してほしいものである。一日以内に「decline」の返事が来るといっそスガスガしい。すぐに別の人を選べる。できないならそれで良い。やりたくないならすぐに「decline」の返事をおくれなもし。
- 2週間メールを読んでいない人がいる。病気なのか、海外出張中なのか、牢屋に入っているのか?
- 「了解メール」をくれたにもかかわらず、結局査読してくれない人は今も昔もいる。ただ最近この比率が徐々に高まっている。無益な2週間(〜3週間場合によっては2月)で投稿者を待たせる。
- 査読を断る人が多くなったのはどうしてなのか?忙しいのか?論文への信頼感が減っているのか?自分が論文を書いたときのことを忘れてしまったのか?
- こないだ臨床医としてとても尊敬する後輩に「査読」のことを聞いてみたら「大学でも査読は話題になるのですが、一円の得にもならない、時間の無駄、キャリアとして評価されない、と避ける人が多いです」と言っていた。大学がこれではアカデミアは滅びてしまう。
- このような環境下で小生のような「査読差配師」は苦労が耐えないが、それでも続けているのは「勉強になるから」である。学問そのものの進歩ということもある。学問の枠組みの変化もある(特にATGC以降のコホート検証のありかたはガラッと論文のスタイルを変えてしまった)
- もうひとつのモチベーション。全国にはまだまだ数多くのプロがいるのである。査読をきちんとしてくれる人たち。本当に感謝に耐えない。このようなコミュニティの周縁に自分がいることが楽しいのである。そして半年に一人くらい新人で有能な人を発掘するのが楽しみである。先月そんな人達のリストを作ってみたのだ。仕事が早くてきちんと仕事をしてくれる人。仕事は遅いけど刻限ギリギリにしっかりとした、とても重たい査読をしてくれるひと。きちんとはしていないが、とにかく最低限の仕事ならしてくれる人。最低限の仕事ではあるが、とにかく早い人。外科で研究をやるひと。癌の研究をやるひとの「査読者ファイル」である。過去20年ほどの経験から練り上げたファイルであるが、とても世の中には出せないな。出した瞬間、この人達に査読が集中し、この珠玉の研究者たちは査読をやめてしまうに違いない。だから大事にしたい。小生が査読を続けるのは、こんな人達とのつながりが楽しいからである。
- このリストに上掲したのは外国人92名と国内40名である。膵癌ならこの5人。化学療法ならこの10人というふうにしている。なによりも大事なのは過去数年の査読履歴である。年間最低5篇以上の査読をきちんとしている人たちを選んでいる。
- 最後に将来の希望をひとつ。AIでプレ審査をしてほしいなあ。(1)ダブル・パブリケーションの発見。(2)本来参考文献に挙げるべき論文が落ちていることの発見(3)あると便利なのは著者の過去の論文との齟齬を発見するシステム(4)学内倫理審査番号の矛盾:異なる論文で同じ研究番号が使われている場合(5)統計の矛盾を発見するシステム